| 学友の輪 〜リレーエッセイ〜 | ||
|
|
||
| 第4回@ 〜親子エッセイ 『親編』〜 | ||
| 川嶋 憲一(昭和49年卒) | ||
![]() |
このたび学友会理事の方より親子二代の診療放射線技師としてなにかエッセイのようなものを書いてくださいと、頼まれ、二ヶ月かかってやっと書き始めましたが、何を書いていいのか頭を悩ますばかりです。それでも自分が学生だった頃卒業してからのことなどを、一生懸命思い出しながらつづって見たいと思います。あんまりよい学生だったとはいえませんが、行岡学園同級生との出会いと勉強と遊び、私自身学生生活を七年離れていたので、とても新鮮だったように思い返します。 | |
| 学生のときに結婚して仲間たちに祝福も受けました。その仲間とは今も付き合いがあります。その仲間(8名)とお酒を飲んだりゴルフに行ったり家族連れで花見をしたり長年のおつきあいもしています。学業三年卒業して三十数年、その間に二男四女が生まれました。全員医療人に成るのかなと思っていましたが、長女だけが高校生のときに技師を目指したいと言ってくれました。娘の入学式の日学校へ行きました。でも学校の場所が変わっていて、またきれいになっていました。私たちの頃は夏は天井から下がっている扇風機が回っていたし、冬は何枚か重ね着をしていたのを思い出しました。阪神大震災の時には娘は一年生でしたが、がんばって学業を続けていました。そして10数年の月日がたち、娘もようやく一人前の技師になったようです。(喜んでばかりいられません。父親の勉強不足がばれそうです)たくさんの先輩や、後輩に胸を張ってしゃべれる人になりたいと今も努力をしています。 これから、もう少し頑張ってみようかなと思いつつ終わりにしたいと思います。 |
||
|
|
||
| 第4回A 〜親子エッセイ 『娘編』〜 | ||
| 川嶋 咲由(平成9年卒) | ||
| 皆様、はじめまして。突然、親子でエッセイを書いてくれと頼まれ、はいはいと二つ返事で引き受けたものの、何を書いていいのやら困ってしまいました。父にも書いてくれ〜ととりあえずお願いして頑張って書いてもらうことにし、自分も頭を悩ませました。 | ||
| とりあえずは自分が思うことを勝手に書き連ねたいとおもいます。そこで、いまだに自分でも不思議に思うのはなんでこの仕事をしようと思ったのであろうか、ナゾです。記憶に残っている(思い出せる)ことといえば、ふつうのOLになるなんてつまらない、なりたくたくないと思ったことが発端だったようです。(全国のOLさんごめんなさい)だからといって、何をしたいかまったく考えもなく、ゆえに身近な人間である家族に目がむいてしまったようです。(病院で働く??)最初は薬剤師になりたいとも思ったのですが、病院で勤務してみたかったので速攻却下し、かといって大変なお仕事である看護師になる気もなく、医師になるほど頭がいいわけでもないのでもちろん論外でした。 | ![]() |
|
| さて、何になろうか…!!そこに見たのは父の姿だったようで、マイナーな(と、当時は思っていた)技師になろうと思い立った…ように思います。(メジャーな職業は面白くないと思っていた)当時、個人病院で技師一人勤務であった父は、普通のサラリーマンより帰りが遅く、そういうもんだと思っていたし、あまり話をすることもなく何気に母を通じて相談していました。(今では顔合わすたび仕事の話が多い職業病な親子である。良かったことではありますが)今思えばよかったのかな?と感じることも多いのですが、ある意味プレッシャーが多いのも確かです。 父ももう還暦をとうに越してはいるのですが、ボケ防止と我が家のためにもう少しの間、頑張って働いていてほしいと思う今日この頃です。 |
||
|
|
||
| 第3回 『インド紀行〜やぶれかぶれの1人旅』 | ||
| 光田 三生 | ||
| インドの旧ボンベイ、今はムンバイと呼んでいる。その郊外でのんびりするのが目的でまずムンバイをめざした。 真夜中にエアー・インディアの飛行機がムンバイ国際空港に着陸した時は雨だった。 タラップから降りてインドの地へ足を踏み入れ、送迎バスで税関へと向かう。手続きが終わると深夜のタクシーで予約しているホテルへと向かう。旅行の前にいろいろ調べた事だが日本人客が1人でタクシーに乗った時は事件が起こるそうだ。特に深夜のタクシーがそうである。税関を出てホッとしたが、その事を思い出し緊張が走った。ホテルまでは約1時間近くかかる。どしゃぶりの雨の中、やっとの事でホテルをさがし出した。ホテルで数時間休んで、ホッとしたのにまったく寝つけなかった。外が少しずつ明るくなってきた、まだ雨も降っている。ホテルの窓を開けるとアパートの裏の様で、狭い空地は有るが草だけが生い茂っている。コンクリートの建物は古ぼけて灰色と黒でよごれ、階段が少し見える。外国のホラー映画のドラキュラとかエクソシストを観た以上に恐ろしかった。 早くも日本へ帰りたくなった。予定滞在日数は2週間あるが、たった1日でも長く感じる。雨がやんだのでアラビア海の港へ散歩に出かけた。外へ出るなりインド独特の臭いをかいで『ああこの臭いがインドの匂いだった』と若い頃来た時の事がよみがえってきた。それは少し甘ずっぱい臭いのまざったゴミの様な軽い臭いである。・・・・・悪くはない。 6月のムンバイは梅雨期であることはわかっていたが、そのスケールの大きさにはびっくりした。どしゃぶりの雨が長い時間続き、少しやんでも又夜も昼も降り続く。 この現象はアラビア海に面したところだけでありデカン高原の方はそうでもない。モンスーンの影響である。温度だけはそう高くなかったのは助かった。日本からの出発の前に少しかぜをひき肺炎だけが残っていた。胸が痛い。肺炎の治るのは日数がかかる。出発しようかどうか関西空港へ向かう直前までまよった。キャンセルの電話だけで済むのだが、命がけでインドへ向かった。そんな体調のうえに空港に着いてから、よけいなお金ばっかり取られそうになる。まず英語でベラベラベラと話しかけてくる。 長い間、英会話も文章も遠ざかっていたのでまったく解らない、解らないとみるとお金を取ろうとする。しかし、これにムカついては相手の思うツボである。お金に関する事なのでいつも笑顔で対処した。空港を出る時、税関でよけいなお金を取られそうになった。ボクシングでいうと1発目のジャブはかわしたが2発目3発目とやってくる。 スポーツでエラーをした時の様に 「ドンマイ、ドンマイ、気にするな・・・・」 と自分に言い聴かせた。 とにかく都会のドラキュラの仲間入りはいやだという事で目的地のデカン高原にある石窟寺院へ向かう事にした。インドでの移動には心身ともに疲れる。まず英語の目印様の物をほとんどかかげていない。ヒンズー語だけである。鉄道駅の電光掲示板だけである。この点はやはりツアーで行く方がはるかに良い、移動はほとんど観光バスなどの自動車であるからです。 そう言えばインドを舞台にした映画『深い河』。 これは秋吉久美子出演で原作は最近亡くなった作家の遠藤周作であるが日本人ツアーの団体バスの中でのシーンがあった。場所はインドの代表的な観光地 ガンジス河の沐浴場「ベナレシ」である。過去インドの事を書いた有名作家にしても多くはガンジス河の「ベナレシ」を舞台として書いている。ここが最もインドらしいところだからだ。 作家の寺山修司、椎名誠、三島由紀夫、他に昔のミュージシャン ビートルズがガンジス河上流で修業をした事は有名であるが、修行の効果はあったかどうか。アメリカのジャズ作曲家であり演奏家でもあるチャーリーミンガスは「死後、私の遺骨はガンジス河に流してほしい」と言っていたが遺族が「ベナレシ」まで行って遺骨を流したかどうかは疑わしい。「ベナレシ」では生まれた赤ちゃんの洗礼にガンジス河の水を頭にかける。この光景は以前に見た事があった。結婚式では式が終わると町の中を大勢でパレードをする。この光景も今回の旅行で見たが「ベナレシ」でもやっているでしょう。そして葬式では火葬場で焼いた後、のどの骨や他の骨をツボに入れ、他をガンジス河へ流す。しかし、ここまでやれる家は中流以上の家である。身寄りの無い老人の場合は自分の死体を焼く燃料の薪を手にいれる為、コツコツと他の人にめぐんでもらったお金を貯める。よく写真で見かける大きな石段の水浴場をガンガーという。これが河に沿って長く続く。10Km近くも続く。ここでは洗濯もする。 しかし、上流からは時々布にくるまれた死体も流れてくる。事故や病気で亡くなった場合、生まれかわる様に焼かないで河へ流すらしい。そして生まれたての赤ちゃんもよく流れてくるらしい。ついでに汚物も流れてくる。それを手でおしのけてのどが渇いた時は水を飲む光景を見た人がいた。 ヒンズー教徒にとってガンジス河は「聖なる河」である。昔、私が「ベナレシ」へ行った時は火葬場というイメージでそこへ行ったが、行ってみるとそれとは正反対の底抜けの明るさがあった。祭りがあったかも知れないが、それも私がインドの魅力に引かれた1つでもあった。今回の旅行の目的地の1つの石窟寺院のある、エローラ、アジャンタの寺院の建築様式は好きだが彫刻そのものにはあまり興味がない。それよりもインドの地方の村や、山林の景色や、雰囲気を味わいたかった。ので、夜行寝台列車で行くことにした。これは前日に予約の切符をとって列車に乗るのだが、ガイドブック1つを持って駅の構内をうろうろしているところを、インドの年輩の女性に助けてもらった。ああ俺も年負いたなあと思った。夜明け近くに石窟寺院の近くの町、ウランガーバードという駅に着いた。そしてタクシーの運転手にガイドブックに記載してある中級のホテルへ行ってもらったが、宿泊をことわられた。外はまだ真暗でだったのであせったが、少々お金をだしてもと思い高級ホテルへと向かい、そこで宿泊できた。そこは日本の観光地ホテルの様に5階建てで長い通路の片側は客室となっていた。ホテルの部屋からの眺めは大変よかった。ここは四方八方が遠くに四角ばった長方形の低い丘に囲まれた静かなよい所であり、やはり大都会のムンバイとは全然違った。ここで数日の間のんびりして昼に冷たいビールを飲めたら、もう日本へ帰ってもよいと思った。とにかく日本ではずいぶん前から旅行の準備をしており、やっとの事で目的地まで来たという安著感と充実感があった。そして、次に石窟寺院へ行くまでのデカン高原の光景と、ところどころの小さな村々ののんびりした雰囲気があった。そして、ヤギや牛や馬や羊の群れに出くわす。インドのヤギは小さく色は黒が半数、白が半数で大変よく目立つ。そのような村々の開放感を味わい、小学生の頃の夏休みに入ったばかりの「ああ・・・学校行かなくてよい・・・勉強しなくてよい・・・」という様なワクワクした気分にひたれた。これらの村は以前に行った時のブッダ悟りの地「ブッダガヤ」と良く似ていた。以前はそこに住んでいる若い衆と打ちとけて話が出来たが、今回はホテルのボーイやタクシーの運転手と親しく話ができた。そのホテルのボーイや前々日に泊まったムンバイのホテルのボーイも20才過ぎであるが結婚はしていないと言っていた。インドでは男は20才までで女性は18才までがほとんどの様である。目的地での数日が過ぎ、帰りのムンバイまでの夜行寝台バスの切符をタクシーの運転手にいっしょに取りに行ってもらった。 翌日はホテルのボーイもバスの駅まで見送りに来てくれた。そして、夜行バスで大都会の喧噪そのもののムンバイへ着いた。行きの宿泊はインドの最高級のホテル、タジアハールホテルの道路をへだてた横の安い安いホテルへ泊まったが、帰りはそこからタクシーで10分ぐらいの適当なホテルへ泊まった。行きの宿泊では1晩だけドミトリーと言って1つの部屋に沢山の人が寝る所に泊まった。これはゆっくりと宿泊できないが回りからの情報を得る利点がある。そのホテルの宿泊客の中にインド人の船乗りが二人居た。二人とも年輩であるが、その二人は日本の神戸や大阪へ行った事もあり、神戸の南京町や大阪の天王寺も行った事があった。 インドで「テンノージ」と言う言葉を聞けるとは思わなかった。私も「オー、テンノージ、ビッグ、カントリー、シティ・・・」いう様な交流ができた。 帰りの飛行機に乗るまで3日もあったが心身ともに疲れており、予定の市内観光はとりやめにした。あとは無事日本へ帰るだけである。そうなると次は冷たいビールを安く飲めるところを探す事である。インドのホテルでビールを置いてある。中華料理店にはビールがおいてあるが、このホテルの近くに中華料理店はまったく無い。少し歩いてみると、ネオン入りで「レストラン&バー」の看板。ドアを開けると中にそう若くもないインド女性が数人いた。音響装置が良く少しうるさかった。これはボラれそうだとすぐドアを閉めて外へ出た。しばらく歩くと今度はドアが無いので中を見ると細長いスペースでカウンターは無いが、中高年の男性が昼間から沢山ぎっしり座っている。座席を1つ空けてもらったが、大きめのコップの中に焼酎(ショーチュー)の様なものをみんな飲んでいる。これも又つき合い切れないとすぐに外へ出た。また少し歩いてやっとレストランでビールを飲める所を探した。食べ物は魚のフライを注文した。ビール瓶のレッテルを見ると「ノック、アウト」と書いてあり、魚は大きなピラニアみたいなのであった。それらを見て元気が出てきた。大ビール2本、大きなピラニアが1匹。合計80ルピー、約240円である。旅の最後に安くおいしく飲めるところを探し出した。これに対して今まで与えたチップの莫大な事・・・・。 今回のインド旅行で感じた事は、向こうから話し出し、又話す必要がある時に言葉が解らないでポケーとするとナメられてお金をむしり取ろうとする。又、心のスキを見せるとお金をむしり取ろうとする。社会的地位があり生活が安定している人々もそうであった。 お金貧しくなると人の心まで貧しくなっている。振り込みサギが流行している今の日本とまったく似ている。 キリストは「心の貧しき者よ、汝は天国を見るであろう・・・」と言っていたが、少しワケガ解らない。一般大衆の生活の観点から、発展途上の速度を中国と比較するとやはり遅れているのでしょう。 カースト制度が大きくかかわっているのは否定できないが、インドの1部の金持ちはやはりケタ違いに大きいでしょう。これを資本主義社会の長期的停滞と規定すべきか・・・・・・。 今までの私の人生で「居直りの度胸・・・・」というもので世の中を渡ってきた私も今回のインド旅行ではまったく通用しなかった。 |
||
|
|
||
| 第2回 『少子化』 | ||
| 黒木
明 日本鳥学会会員 日本鳥類連盟会員 |
||
| 皆さん。少子化について関心がありますか? 家族は? 結婚してますか? お子様は? 少子化はなぜおこるのでしょうか,医療人として考えると,結婚をしてもどちらかに何らかの問題があって子供が授からないから,と思っている人もいるかもしれません。 50年程前でしたか,ヨーロッパで「少子化」が問題になっているとき,日本もやがてそのようになる。と新聞で読んだような気がします。それから地球をぐるりと廻って日本にやってきたのです。日本の人口形態はキノコを横から見た感じ,さしずめ皆さんの好物の松茸のような形になって,税金の問題,年金の問題となってきているのでは? 私は,こう思います。人間の問題でなくて地球の温暖化の問題です。南極のオゾン層に大きな穴が空いた。何時でしたか? 日本にもその兆候が顕著に現れてきました。南の海ではサンゴ礁の白化,南洋に住んでいる魚が捕れた。大きなクラゲが日本にやってきて漁業の網を破った,など。でも私には関係ない,と私も思っていました。 1992年頃,植物に大きな変化が,まづ淡路島の赤松が集団で枯れ始めました。さあ大変「松食い虫が多量に発生した」とかでヘリコプタ−でスミチオンという薬剤を広範囲に撒きました。その頃,私は10回ほど淡路島を訪ねています。ある農家では「薬を撒いた次の日,牛が下痢をする」と聞いたことがあります。また淡路のモンキーセンターでは,1〜2年後でしたか奇形児が多量に出生し問題になりましたね。 赤松は乾燥した風通しの良いやせた土地を好むと思います。植物は地球の変化を感じて広葉樹や照葉樹が活動を始め,好都合なことに土壌は肥沃で気温も手頃となってきたのです。そうすると松は風通しが悪くなり足下はじめじめとなり耐えられなくなって枯れていく。おまけに好物の松茸が急激に採取出来なくなって来ています。松茸絶滅?それで松茸の養殖を研究している人もいます。町の食料品売り場には外国製松茸が幅をきかしています。今,淡路の山,猿たちはどうなっているのでしょうか。こんな時は現地を訪ねるか,あるいは昔はこうだった,今はこうなっている。という報道が頼りになります。私は暑い夏を避け,秋の鳥の渡りの頃,ある目的をもって訪ねたいと思っています。 |
||
![]() |
松枯れが,兵庫県全域に広がり絶滅に瀕しております。左の写真は今年撮影した加西市の山の写真です。 白く立ってるのは立枯松の哀れな姿。7月山崎町の梯で樅の木に囲まれている立派な赤松も枯れていました。日本海側の松も枯れ始めています。日本では赤松絶滅?
いいえ大丈夫?滋賀県甲西町にある美松(ウツクシマツ)のようにしっかり手入れしてあれば大丈夫と思います。この美松を見たときその昔行ったバギオ(海抜1,520m)のベンゲット松を思い出しました。 バギオはフィリピン北部にある都市で,日本で言えば軽井沢のような所。下草が綺麗に整理され幹の赤い肌がとても印象的でした。ここの松が健在であればしばらくは大丈夫でしょう。 |
|
| さて動物はどうでしょうか? 水鳥は農薬の影響か激減しています。皆さんになじみの鳥「ツバメ」について少し語りましょう。日本に来るツバメは5種類,ショウドウツバメ・ツバメ・リュウキュウツバメ・コシアカツバメ・イワツバメです。関西で普通に見られるのはツバメ・コシアカツバメ・イワツバメです。ショウドウツバメは北海道方面,リュウキュウツバメは名前の如く沖縄方面で見られます。イワツバメは関西山間部の崖や橋の下に営巣していて,最近は神戸市でも記録が出ています。ツバメは家の軒先に好んでお椀状の巣を造ります。よく見かけるでしょう。コシアカツバメの巣はトックリ状。3月始めに南からやってきて巣作りを始め子供を育てをして秋に南の国に帰って行きます。 冬1月バンコック(THAI)の夜,シュロム通りで,塒にしていたのを見たことがあります。なんと3万羽です。数えた猛者がいるのです。次の朝,その場所に行ってみるとツバメの糞で車から道から雪が降ったように真っ白です。日本では問題になるでしょうが,タイではトラブルは無いみたいでした。 |
![]() |
|
| そのツバメに異変が起きてます。少子化です。普通4卵から6卵の卵を産み育てます。普通は5卵が多いようです。5羽,6羽と育っていたのですが,3羽になり2羽になってきているのです。大阪JR天満駅から学校まで歩いていますが10年前は10巣程見ることが出来ましたが,平成19年には3巣で7羽巣立ちました。環境の変化があります。巣作りした建物が取り壊されたり,巣が被害に遭ったり,天満の最大原因は餌不足です。 上の写真は5羽の雛が見えます。平成13年撮影した国分寺2丁目の軒先の写真です。私の記録によると4月上旬に巣作りや巣の補修をして卵を産み巣立ちまで約50日ほど経ります。餌になる昆虫が多いと一夏に2回育雛します。平成12年頃には雛が孵り巣から頭を出すようになって,やがて巣から頭も出さなくなり親も給餌することなく,巣の横の電線に留まって動きません。このように卵から孵っても巣立ちできない雛が増えてきました。 |
||
![]() |
平成19年なって左の写真のようにこの巣では2羽しか巣立ちませんでした。育雛は1回のみでした。それも育雛を始めるのがだんだん遅くなり1回の育雛で終わりです。その上巣立つ姿になってからが長く巣立ちが遅れるようになりました。この写真を撮影してもう明日ぐらい巣立つと思っていたのですが巣立ったのは5日後でした。このように気象の変化で鳥たちの餌がだんだん無くなってきています。山の動物たちが里に下り農作物を荒らす頻度が多くなったのも事実です。里山に行くと,山の入口に門扉がありそれを開閉して山に入らなくてはならないようになりました。動物との距離がだんだん遠くなってきます。10年程前山からの帰り中国道福崎I.Cから宝塚I.Cまで車で走ると,フロントガラスが昆虫の衝突でドロドロになり帰って洗わなくてはなりませんでしたが,今はほとんど汚れません。町中を走るのと変わりがありません。走行中見る鳥も非常に少なくなっているようです。 | |
| 日本もベビーブームから出生率が急激に減少してきています。これは親たちが身体で何等かを察知してきた現れではないかと思います。よく第六感とか言いますが,保身的な第七感があっても不思議ではないと思います。「気持ちは判っていても身体が動かない」と言うことがありませんでしたか? それに似ているのでは。そんな中で生まれた子供達が大人になり,結婚適齢期になっても恋人もいなければ結婚する気にもなれない。教育の問題・育てていくだけの賃金ももらえないとか,子供を育てる環境では無いとか,独身主義という理由もあるかも知れませんが,それ以前に身体がそれを拒否しているのではと考えています,いかがですか 第七感は? 地球至る所で砂漠化し,大洪水になり地震が起き,北極の氷山が加速度的に消滅している現在です。地球のマグマが活動し,地球が大きくなるのか小さくなるのか解りませんが,その昔氷河期があったように次は猛烈な温暖化か灼熱化があっても不思議では無いと思います。その時は日本の人口形態がキノコからタケノコになった頃に起こるかも判りません。少子化は地球が要求している現象かも知れません。人間が増えすぎて五月蠅いので近いうちに地球を大掃除しようとしているのかも。記録的な暑い夏,こんな事を考えてみました。 貴方どう思う? 少子化は人間の問題か地球の問題? どうする? |
||
|
|
||
| 第1回 『二度の卒業と学友たち』 | ||
| 河村
吉章 日本医学技術学校レントゲン科 昭和45年卒業 日本医学技術学校放射線専攻科 昭和46年卒業 |
||
| このたび学友会では、待望のホームページが開設されることになった。 開設にあたっては、開設委員の方々に、並々ならない奮闘をいただいたことに、まずは敬意を表します。 そして、この初回のコラム欄に、投稿の機会をいただいたことに感謝いたします。 私は、昭和43年4月に入学して、昭和46年3月に卒業するまで、二度の入学試験と二度の卒業を経験した。一つは、日本医学技術学校レントゲン学科、そしてもう一つは、同学放射線専攻科である。しかもこの間に、2部夜間部から1部昼間部へ転部したため、それぞれに異なる学友を持つ、変則的な学生生活を体験、なんともめまぐるしい3年間を過ごしたのである。 |
![]() |
|
| 最初は、昭和43年4月、日本医学技術学校レントゲン科2部へ入学。卒業年限は2年半で、2クラス総勢80名の学友がいた。当初、確たる目的意識も持たずに飛び込んだためか、周囲の学友たちの真剣さには圧倒される毎日であった。しかし、世の中は、新しい放射線の取り扱いへの対応に、大きく変換しようとしている時代であった。後に技師会活動を通じて理解したことであるが、この時代、先輩諸氏は、新しい放射線の取り扱い規則に対処するため、講習会やら二度目の国家試験やらで、非常な努力を強いられていたのであった。われわれ学生にも、この空気はひしひしと押し寄せてきていた。私も少なからず周囲からの刺激を受けずにはいられなかった。 | ||
![]() |
そんな折、本学では、来年度より昼間部を開設するとのこと。そして、昼間部に変われば、残りの卒業年限が1年になり、半年短縮出来るというのである。半年早く卒業出来ることの魅力に惹かれ、さっそく職場の院長に頼み込み、否応なく昼間部に鞍替えした。この時、変部した学友は、わずか12名であった。しかし少人数のためか、非常に和気あいあいとした雰囲気に溢れていた。「今日、あいつが休んでいるのは何でやろ? みんなで様子を見にいってやろう。」と、下宿の安アパートに押しかけたり、みんなで下宿になだれ込んで酒盛りをしたり、恋の悩みや、将来のことについて真剣に語りあったりしたことは、日常茶飯事であった。 | |
| 余談ながら、このとき、私たちは、初めての日本医学技術学校レントゲン科昼間部であるので、当然第一期生であると信じて疑わなかった。ところが、学友会の名簿を見ると、10年前に一度だけ昼間部が、開設され、昭和36年卒業の先輩がおられることがわかり、びっくり驚きである。よって、残念ながら我々は、第一期生の栄誉に浴することは、出来なくなってしまったのである。 | ||
| つづいて、本学では世の中の趨勢に合せるように、放射線専攻科が新設されることになった。ここで二度目の入学試験を受けることを余儀なくされたのである。このとき、なぜか一方の雄である大阪物療専門学校の専攻科開設が、遅れていたため、大阪物療の方からも数名の方が入学されてきて、学友は15,6名となった。放射線専攻科は、既存の教室から隣に新教室も出来上がり、気分も新たに発足したのではあるが、なんとなく手探り状態のスタートであったようである。まともな教科書もなく、診療放射線技師試験受験資格取得講習会テキストが、唯一の参考書であるというような有様であった。特に講師陣の不備は、ひどい状態であったように思う。 | ![]() |
|
| 一学期などは、休講につぐ休講の連続で、まともな講義は数えるほどしか、というような状況であった。エックス線技師のライセンスを取得して気が緩み、休学状態であった私にとっては、幸いであった。 | ||
![]() |
私が無事に卒業できたのは、学校側の準備不足が大きな要素であったのではと、今でも真剣に感謝している。しかし、本当のところは、学友のみんなに助けてもらったことが、一番大きかったのである。学友とは、何事にも代えがたくありがたいものである。 卒業何年経っても、変わらぬ親交を保っていられるのは、苦楽を過ごした時代を共有しているからである。今回、たちあがったこのホームページが、わが校の全国で活躍する多くの学友を、更に結びつける端緒になることを願いながらペンをおきます。 |
|