平成23年3月30日から4月2日まで、岩手県陸前高田市の高田第一中学校に車載CTの撮影技術支援という立場で行ってきました。まず、災害医療援助に参加することになった経緯ですが、関西広域連合(関西の府県連合)はこの度の大震災による被害が甚大であった3県に対し、カウンターパートナーとして分担支援する枠組みを決定しました。岩手県は大阪府と和歌山県が担当することとなり、大阪府立病院機構においても急性期医療センターを中心に、医師、看護師、薬剤師等を救護所等の医療派遣として5月末まで週単位で派遣しておりました。また、保健所に所属する放射線技師も原発事故の影響から放射線測定業務を行うために現地派遣されていました。そして私ですが、当院からも医療派遣が決まるなか放射線技師は対象外となっていたため、震災のあった翌日に技師長と「阪神大震災では当時、放射線医学研究所が所有していた車載CTが現地で役立ったから、大阪がん予防検診センターにある車載MDCTならもっと役立つのに」なんて、他人事の会話をしていたように覚えています。それから二週間の経った3月25日の夕方、岩手県災害対策本部から大阪府の災害対策本部宛てに車載CTの貸与要請があり、大阪府から大阪がん予防検診センターには、翌26日に陸前高田市へ向けて出発せよとのことでした。
ここで問題になったのは、大阪がん予防検診センターでは肺がん検診が主な業務なのでそれ以外のCT撮影は全く経験が無いこと。また車載CTから画像を取り出す際に専用の端末が必要であり、その端末は車に積んで移動出来ないとのこと。なによりに現地の状況が把握できていないということもあり、出発は翌週に延期することとなりました。
それから車載CTとともに現地に向かう人選が始まりました。まず、運転手さん2名、放射線技師1名が大阪がん予防検診センターで選抜され、当院からも放射線科医師と放射線技師を派遣するということになりました。それから諸々の準備作業や支援物資の積み込み等を経て、30日の朝にCT車が予防検診センターの人員を乗せて出発しました。
中西部長と私は、先乗り調整のため飛行機で東京、秋田を経由し30日の夕方に盛岡の岩手県庁災害対策本部に入りました。
盛岡市内の様子ですが,震災当日に震度6弱の地震だったそうですが、震災後20日経って地震の影響をほとんど感じない状況でした。しかし岩手県庁だけは自衛隊の装甲車、トラック、ジープ等が並び、まさしく物々しい雰囲気が漂っていました。
岩手県庁で現地医療対策本部の責任者の方と面会し、その後県庁で行なわれた医療対策全体会議にも参加させていただきました。その際、事前の取り決めと現地の認識に大きな隔たりがあることに驚いてしまいました。まず、事前の連絡では、「車載CTは高田第一中学校に配置する。当方は車載CTの貸与のみで運用は県庁及び岩手医大が行う。CT稼動に必要な自家発電装置の燃料は県庁で手配する。」等、取り決めがなされていました。
しかし現地では「高田第一中学校に配置されるのですか?」、「CT装置の撮影は何方が?」、「燃料は現地で話して下さい。」「高田第一中学校は盛岡日赤病院がメインで活動されているので、運用は高田第一中学校で盛岡日赤病院の責任者とご相談下さい」とのことでした。4日間の派遣命令で来た私達は、高田第一中学校での車載CT引き渡しを無事に終えて帰路につけるか、とても不安に感じた盛岡の夜となりました。
翌31日の朝、車載CTと高田第一中学校で合流する予定で出発を待つ私たちに、県庁の方が「盛岡日赤病院の現地責任者の方がこちらに向かっておりますので暫くお待ち下さい」とのこと、間もなく来られた現地医療責任者が、「大きなCT車では、高田第一中学校に乗り入れ出来ないので、先に車を見せてほしい」とのこと。高田第一中学校へ向かうCT車に急いで電話するも連絡が取れず、「現地への最終ルートはひとつ」とのことで、CT車を必死に追いかけていただきました。途中、何度かの電話で辛うじて乗員の方に電話が繋がり、現地手前の「道の駅」で合流しました。乗員の方にその件を伝えると、「現地対策本部から大丈夫」とのこと。とりあえず盛岡日赤病院の車に運転手さんが同乗し下見に行ってもらいました。下見された運転手さんからは「高田第一中学校へ上る最後のスロープは180度カーブで傾斜もあるので厳しい」とのことでした。
他に配置する場所を検討しましたが、医療チームが24時間常駐する場所は近辺に高田第一中学校しかないとのことで、トラブル覚悟で突入しました。途中、わき道を利用し車をUターンさせ最後に車の底を擦りながらも何とか高田第一中学校の校庭に到着しました。
次にCT車の駐車場探しです。やはり高田第一中学校では「なにか来るらしい」程度の認識は覚悟しておりましたが、想定外であったのは高田第一中学校の校庭には岩手県下で初めての仮設住宅が並び、当日は卒業式が行われている最中ということでした。陸前高田市の象徴的な高田第一中学校には、多くのメディアが押し寄せた、グランドにはTV局の中継車が並んでいました。当然CT車を駐車するスペースなど無く、停車すらクレームがつく状況でした。
現地の担当者と交渉し、NHKの中継車に無理やり移動をお願いし、エンストしている車を皆で押して何とか校庭の隅に居場所を確保しました。(図1)
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図1 図1高田第一中学校とCT車
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その後、4月1日にかけてCT稼動に必要な自家発電用軽油の確保、現地の医療関係者との運用に関する取り決め、県立病院の技師さんにCT撮影業務の委託と操作説明等、想定外のトラブルがありがらも無事終了しました。自家発電用軽油は、最近になってやっと確保できる様になったそうで、もし1週間前に出発していたら「燃料が無いので使用出来ず」という事態になっていたかも知れません。また現地滞在中は何度も余震に襲われました。特に就寝中の震度4以上は思わず飛び起きてしまう程でありました。
肝心のCT撮影ですが、3月31日から4月1日にかけてCT撮影は2人でした。
これは、周辺の避難所に情報が十分伝わっていなかったことや、震災から2週間が経過し、避難所には慢性疾患や風邪、ノロウイルス等の患者が多く、CT撮影が必要な患者さんはすでに周辺の病院に転送されたこと。地震で家具の下敷きや身動きのとれなかった人々は、巨大津波により溺死されたため、けが人が想像より少なかったという事実があります。
私は空き時間を利用して、高田第一中学校内の避難所や校庭、自衛隊の宿営地などを見て回りました。救護室では、情報伝達の遅れが支援物資の偏りになっていること。
被災者の若手は殆んどボランティアで避難所の運営に協力していること。メディアが勝手に撮影やインタビューを行ない、現地でトラブルが増えていること。自衛隊の協力で週一回の入浴が可能になったこと。自衛隊の宿営地は整理が行き届き、とてもすっきりしていたこと。現地で医療支援している日本赤十字を含め、自衛隊、DMAT、医師会、国立病院機構、ユニセフ等、様々な組織がそれぞれの持ち場で協力していること。関西から多く給水車が給水支援に入っていることなど、現地でしか知り得ないがたくさんありました。
またCT車の運用に協力いただけることなった県立大船渡病院の技師さんが、瓦礫の町となった陸前高田市を徒歩で案内いただきました。(図2)震災前の陸前高田市を知らない私でしたが、あまりに悲惨な状況に言葉を失くしていました。
最終日、盛岡に向かう帰路に陸前高田病院で車を止めていただきました。(図3)
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図2 陸前高田市街地
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図3 県立陸前高田病院
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震災当日、4階建ての陸前高田病院は4階病室の上部まで津波が押し寄せ、入院患者さんは医師や看護師の誘導のもと屋上に逃げ延びたそうです。寝たきりの患者さんの中には、運良くエアーマットが浮いたおかげで4階の天井近くまで持ち上げられながらも助かった方もおられる一方、1階で書類等を持ち出そうとしていた事務職員や2名の放射線技師さん含め、多くの職員が津波により亡くなられたそうです。
今回の東日本大震災は巨大津波を伴い、地理的な問題や被災範囲の広さと相まって、救援する側にも様々な難題を突きつけた震災であると思います。この状況で救援に行く者は十二分の準備と、様々な想定外を臨機応変に対応する能力が重要だと感じました。
最後に、東北地方を襲った大震災により被害を受けられた方々にお見舞い申し上げるとともに、今も現地で様々な救援活動を行っている方々に敬意を表します。